島根県の西部に、石見と呼ばれる地域があります。この土地には、五穀豊穣への感謝を神に捧げる神楽が伝わっています。それが石見神楽です。
人口およそ十九万人のこの地域に、神楽を舞う団体が百三十を超えてあります。舞うのは、その町に住む人たちです。
人と人をつなぎ、人と地域をつなぎながら、
土地の祭りとして育ってきました。
秋祭りの夜、氏神様の境内に人が集まります。神殿での前夜祭の神事が終わると、舞殿で儀式舞が始まります。夜九時から朝七時まで、十二から十四の演目が、休憩をはさまずに続きます。
最初は静かに場を清め、四方を鎮め、何かが入ってこられる場所をつくる。
そのあとに、舞がはじまります。神々が現れ、鬼が現れ、物語が動き出し、早朝に大蛇が激しく舞う。そして五神で終わります。
一夜まるごとが、神様への捧げものにあたります。ここが奉納だという一点は、どこにもありません。始めから終わりまで通してひとつです。
「何もない」時間があるからこそ、
そこに訪れたものを感じることができる。
かつて神楽は、収穫の季節に行われる神事でした。神主が氏神様の境内で、夜を徹して舞を奉納する。祈願からではなく、実ったことへの礼から始まった祭りです。
明治のはじめ、神職が神楽を舞うことを禁じるお達しが出ました。神主たちは、村の有志でつくられた神楽団に、自分たちの舞を教えました。神主から氏子へ、社から町へ。渡されたことで、神楽は町のものになります。
受け取った人々は、ただ昔の形を守ったのではありませんでした。自分たちの時代に合わせて舞や囃子を変え、面や衣裳を工夫しながら、新しい神楽をつくってきたのです。囃子は六調子から八調子へと速くなり、面が増え、火が噴かれるようになりました。いま思い浮かべるあの賑わいは、そのあとに育ったものです。
受け継がれながら、変わり続けている。
その土地に生きる人の手によって、
今も更新されている伝統です。
面も、衣裳も、十七メートルある大蛇の胴も、石州和紙でできています。粘土の型に和紙を何層も貼り重ねて、柿渋を塗って強くします。軽いから、あれだけ激しく舞えます。
紙をすく人がいて、面をつくる人がいて、刺繍をする人がいて、舞う人がいます。この和紙がなければ、石見神楽のものづくりは成り立ちませんでした。
太鼓も、舞の呼吸も、面をつくる技術も、親から子へ、子からその先へと受け継がれてきました。石見には今も、神楽を舞うために、この土地に残ることを選ぶ若者がいます。
神楽という言葉は、神座(かむくら)から来ていると言われています。神様をお迎えするために、空けておく場所という意味です。
KAGURAは、その一夜の運びになぞらえて、五つの所作に分けています。石見神楽の演目の順序をそのまま写したものではありません。一夜の流れになぞらえて、こちらで置いた構成です。
秋祭りの夜、境内に人が集まる。
そこにあるのは、何世代もの人々が受け継いできた、
土地のつながりそのものです。
このページの記述は、石見神楽公式サイト、文化庁 日本遺産ストーリー079「神々や鬼たちが躍動する神話の世界」、京都芸術大学の報告にもとづいています。
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