「邪を断つ」とは、
邪を持たない人間になることではなく、
自分の中の邪を自覚し、
それに従わない自由を持つことです。
神楽は、神を迎える場所、神座(かむくら)から来た言葉です。
場を清め、神を迎え、祈りを捧げ、日常へ戻る。
昔の人は、自然の働きに神を感じ、作物が実ること、日々を健やかに生きられることを祈ってきました。
KAGURAは、昔から大切にされてきた所作に込められてきた祈りや節目の意味を、いまの日常に置き直す道具です。
KAGURAでは、週に二度、夜に所作を行うことを提案しています。
KAGURAをお届けする際には、日々の暮らしの中で実践する所作も、ともにお渡しします。
自分が自分のいのちを生きるために、日々の中で邪を断つ所作を持つこと。
KAGURAは、そのための道具です。
自分のいのちを生きるとは、自分が何を感じ、何を大切にしたいのかを知りながら、自分を取り巻く世界との関わりを生きていくことです。
神楽という言葉は、「神座(かむくら)」に由来するといわれています。神を迎えるために、空けておく場所という意味です。
日々、わたしたちは知らないうちに、誰かの期待や過去の記憶、まだ起きていない未来への不安を抱えています。中がいっぱいになると、すでにそこにあるものさえ、感じられなくなります。
KAGURAは、一日のなかに小さな「迎える時間」をつくります。身体を清め、香りに触れ、呼吸をする。その時間を、五つの所作にしました。
民俗学でいうハレは、祭礼や年中行事などの特別な時間。ケは、日々の暮らしや営みです。この二つが循環することで、日常に節目が生まれていました。
人の言葉や期待、役割に触れながら暮らすうちに、いつのまにか自分の感覚を置き去りにしてしまうことがあります。いつもの流れをいったん止め、自分の感覚を確かめ、また日常へ戻っていく。
KAGURAの五つの名前は、石見神楽の一夜の流れからとりました。場を清め、舞い、納め、最後に皆で分かち合う。その一夜の運びになぞらえて、五つの所作を組み立てています。石見神楽はブランドの所作イメージとしてお借りしています。
石見神楽は、地域に受け継がれてきた伝統芸能です。その舞や物語には、土地の信仰や神話、人々の祈りが息づいています。
石見神楽とのつながりは、KAGURAという名前の背景にある、文化とのつながりです。受け継がれてきたものへの敬意を持ちながら、いまの暮らしへとつなげていきます。
神楽の舞台がはじまる前には、場と身を清め、祈りの準備をととのえます。神社で手を洗い、口をすすいでから神前に向かうように。
所作のはじまりに、空間にひと吹き。樹と柑橘の香りに包まれながら、いつもの流れから離れ、これからの時間に向かう支度をします。
神楽のはじまりには、四方を清める所作があります。白い紙の飾りと扇を手に、東西南北、四方を順に祓い、これから舞が始まる場所を清めます。場を決める舞です。
断・浄・慈のエネルギー
入浴のとき、洗顔のときに。お顔と全身になじませ、撫でるように洗い流します。
水とともに、自分の中に入り込んだものを断ち切り、そぎ落とす。身を清め、空になるための所作です。
祓が、場を清める所作なら、禊は、自らの身を水に入れて清める所作です。神事の場では、舞や奉納に臨む前に、水で身を清める習慣が大切にされてきました。誰かに代わってもらうことのできない、自分自身のための清めです。
火・風・天地・創のエネルギー
神楽では、面をつけた舞い手が、太鼓と笛にあわせて舞台の上を躍動します。
入浴や洗顔のあとに、化粧水・美容液として素肌になじませます。感謝とともに、自らのいのちの力がめぐっていくのを感じる所作です。
支度が終わると、いよいよ面をつけて舞が始まります。石見神楽では、神話を題材にしたさまざまな演目が舞われます。その背景には、天岩戸の物語をはじめとする日本神話の世界があります。
太陽の神、天照大御神が岩戸に隠れ、世界が暗闇に包まれたとき。天宇受賣命が舞い、神々が笑い、その賑わいに誘われるように、天照大御神が姿を現します。
神楽には、厳かさだけではなく、笑いとユーモアを織り交ぜた賑わいがあります。「今年も実りをありがとう」よく生きることができたことを、喜びとともにお返ししていく。
地・水・静・和のエネルギー
舞い終えると、面をとり、装束を解き、道具を納めます。
舞のあとに、保湿乳液として素肌におさめます。手のひらの温度とともに、受け取ったものを内側へ静かに納めていく所作です。
神楽の舞が終わると、面を外し、装束を解いて、道具を納めます。次の秋まで、そのまま納めておきます。
非日常である神の世界から、日常である人の世界へ、感謝とともに安全に帰るための所作です。一度ひらいた結界を閉じ、日常の空間としての結界をはり直すことで、受け取ったものを静かに納めていきます。
神楽の一夜がそうであるように、KAGURAもまた、ひとつの循環の中にあります。
神楽のあとには、神に供えたものを皆で分かち合う直会があります。祭りが終わり、人々はそれぞれの暮らしへ戻っていく。
所作の終わりに、空間にひと吹き。日常にもどり、地に足をつけて、自分の暮らしに根差していきます。
柚子の蒸留水に、精油で季節の香りを加えています。
舞台の後は、神様に奉納したものをおろして、皆で分けて食べる。その時間を直会(なおらい)といいます。舞で満ちた生命力を肚に納め、人の日常へと完全に戻るための、笑顔に満ちた最後の儀式です。
張りつめた時間から、いつもの時間へ戻るための会だと言われています。何世代もが夜通し分かちあい、地域の人たちのつながりを築いてきたのは、この時間でした。
宴は、日常の側の一本です。舞台が終わり、面を外し、皆で分け合って、いつもの時間へ戻っていく。その戻り先である日々こそが、いちばん長く続くものです。特別なことが何も起きない日を、ていねいに重ねていく。KAGURAが置きたいのは、その時間です。
祓が日々の祓いなら、晴は節目の祓いです。長く抱えてきたもの、受け継いできたものを晴らし、あらたまる。悪いご縁を晴らす日に、先祖から続くものを整える日に。年に何度もあるものではありません。区切りをつけたいときの、一本です。
晴 HARE は、沖縄に自生する月桃の蒸留水を軸にしています。旧暦十二月八日、月桃の葉で包んだ餅を食べて厄を祓う習わしが、いまも続いています。年の節目の草です。
日々の暮らしでは、わかっていても、いつもの反応に引き戻されることがあります。
だからこそ、日常の中に所作を置きます。
週に二度、夜の所作を通して、中今に立ち、自分の意思で行動することを確かめていく。
石見神楽に息づく精神性を手がかりに、「邪を断つ」という実践を日常の中へ。
KAGURAは、そのための所作をお届けします。
週のはじまりの日曜の夜と、週のおわりの金曜の夜。
日々のお手入れとは別に、静かな時間をとって、KAGURAを取り入れると決める。そこから、すべてが始まります。
いまお使いの化粧品はそのままで、週に二度の夜だけKAGURAを取り入れることもできます。KAGURAを毎日お使いの方も、日々のお手入れとは別に、週に二度、邪を断つ時間をとります。
祓・禊・舞・納・宴の順に。日常の流れをいったん止め、自分の内側に意識を向けるための時間です。
手の運びや、ひとつひとつの所作は、お買い上げの際にお渡しします。
五つのあいだには、何もしていないように見える時間があります。ひと吹きしてから顔を洗うまでの少しの間。手のひらで温めている時間。ふたをしてから、部屋にもう一度ひと吹きするまで。
塩祓には、物語も面もありません。それでも、もっとも基本であり、もっとも大事にされている。支度が、本編と同じ重さを持っています。その時間を、飛ばさないでください。何も起きていないように見える時間こそ、自分に戻るための時間だからです。
日本の祭りの多くは、米からはじまりました。春に田へ水を引き、苗を植え、夏を越して、秋に刈る。その一年をそのまま映すように、祈りと感謝の日が置かれてきました。米は作物であると同時に、暮らしの時間そのものだったのだと思います。
神前に供えられ、酒になり、餅になり、人と人を結んできたのも、この一粒でした。石見の神楽が秋の夜に舞われるのも、実りへの礼としてです。
KAGURAは、この大切にされてきた自然の恵み ── 邑南町の無農薬のお米のエキスをいただき、感謝と共にお届けします。
自分のなかにあるものを妨げているものに気づき、そこから離れる。
何を感じ、何を望み、どこへ向かいたいのか。その声を、自分で聴く。
そして、自分の生命力が向かう方向へ歩き出す。
その先に、思いがけない縁や、新しい関わりが生まれることがあります。
自分の内側に空間ができると、世界との関わり方も変わっていくのです。
邪を断つ、
週に二度の夜の所作を暮らしの中に。